大阪のひとり出版社「つむぐ舎」ができるまで①
はたして無事に立ち上げられるのか?
このたび、ひとり出版社を立ち上げることになりました。
これまで広告エディトリアル、月刊育児雑誌の編集、単行本書籍の編集、社史の編集、雑誌のライター…など、幅広く出版・編集の仕事をしてきたのですが、自分探しの終着点の答えをさぐる意味でも、新しいチャレンジを始めることにしました。
とはいえ、単行本の編集・制作の経験はあるものの、流通など営業的なことなどはまったくの初心者、 オールド・ルーキーです。
この連載では、このチャレンジの紆余曲折や、できなかったことも含めて記録していけたらと思っています。本づくりに興味のある人や、出版社を立ち上げようかと思っている人に、読んでいただければうれしいです!
(なんて言いつつ、更新できずに今回で終わる可能性アリ!かも)
本当に立ち上げられるのか、レポートしていくよ!
大丈夫なの? ムリなんじゃない?
本づくりの魅力とは?
わたしが編集の仕事が好きな理由のひとつに、チームプレーであることがあげられます。
編集のスタッフには、次のような人たちがいます。
カメラマンやイラストレーター、デザイナー、校正者などのクリエイターの皆さん…。その人たちと一緒にひとつのモノをつくっていく喜びは、何物にもかえがたいものがあります。
本づくりの場合は、そこに装丁家さんや印刷所の方が加わって、用紙を選び、印刷の色などをああでもないこうでもないと試行錯誤があって、ようやく一冊の本がつくられていきます。
雑誌の編集に携わっていたときは、編集の仕事って麻薬のような中毒性があると思っていました。
書籍の編集は、なんとなく出産のよろこびに近いかな。
なんてったって、古くは万葉集や古今和歌集といった歌集や古事記、日本書紀などだって、ことばをつむいでまとめあげた「編者」がいたのですから、すごい!ですよね。
人生の半分を過ぎ、この先、どうやって生きていくかを考えたとき、大それた想いではありますが、この先輩たちの仲間になれたら、一冊でも後世に遺るような本をつくることができたら…と、重い腰をようやく少しだけ上げることにしたのです。本当はめちゃめちゃ小心者なんですが…。
どんな媒体にも、それをまとめる「編集者」がいるんだよ。
よく「何をしている人かわからない」って言われるよね。
どうして関西に出版社が少ないのか? ①
また、出版業は東京の地場産業で、関西に出版社が少ないことも理由にありました。
(ここからご挨拶がわりの私の仕事遍歴が続きますが、興味のない方はスキップしてください)
紆余曲折のギョーカイ物語
もともと関西で企画制作会社、編集プロダクション、フリーと渡り歩いて26歳の時に上京。
「〇タス〇ラブ」や「日刊〇ンダイ」など様々な媒体でライターや編集の仕事をしていたのですが、東京にはとにかくいろんな編集の仕事がありました。原稿料もいいし、何より仕事の幅が広くて面白かった。関西では情報誌の仕事がほとんどだったので、やっぱり編集の仕事をするなら東京だなと思ったものです。
絵本専門店の月刊育児雑誌編集部では、毎日が学園祭の準備をしているようなハイテンションな日々でした。
校了前は、編集部に段ボールを敷いて寝て、朝、印刷所の方に起こされる、なんて毎日。3日ほど徹夜が続いて、お風呂だけに帰ることもありました。
企画を考え、それをカタチにする日々は麻薬的に楽しい一方で、過酷でもありました。
責任を持たされると余裕もなくなり、編集スタッフへの対応もダメダメだったと思います。今思い返しても、若かった自分にデコピンをしたいぐらいに恥ずかしい…。ほんと、あの頃、一緒に働いていた皆さん、ごめんなさいっ!
「やりがい搾取」なんていう言葉もなかった時代、もっと緩やかに長く続けられたら良かったんですが……結局は、自分の実力不足だったのだと思います。同じ場所で続けられる人の強さの、足元にも及ばない。
それは、たぶん、今もなお変わらず私の未熟なところだと思います。
そうして毎日が学園祭のような編集部で燃え尽きた私は、次に誰もが知るキャラクターの事務所に入ります。
そこは、それまでの編集・ライター業と違い、プロデューサー的業務がメイン。
「やりがい搾取道」を極めてきた私に初めて訪れたバブリーな生活で、この仕事についてもいつか書きたいと思いますが、ようやく慣れてきた頃に妊娠が発覚。
同僚にあまり迷惑をかけたくないという昭和的思考で退社を選択し、結局出産後、夫の転勤により関西に出戻ることになるのでした…。 <つづく>